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1567年、伯父の明宗 恭憲王の後を受けて即位する。儒教に傾倒して儒学者を重用したが、これがかえって配下官僚の間での思想的対立や政治的対立を引き起こした。 1592年からは日本の豊臣秀吉からの侵攻を受けることになる。いわゆる文禄の役であるが、先祖の李成桂以来、平和な時代が続いて軍が有名無実となっていた朝鮮軍には戦国時代を生き抜いてきた日本軍に太刀打ちできず、一時は首都の漢城府(現在のソウル)から追われ、開城に向かったが、ここでは迎えるべき文武官は殆ど逃散し、また民衆からは、国王一行に罵声を浴びせられ、石を投げつけられる有様であった。続いて平壌さらには義州まで落ち延び明に救援を求めた。臨海君、順和君の2王子は捕らえられるという危機的状況に陥った。 その後、明からの援軍を得て平壌、開城を回復し、続いて漢城府の回復を目指したが、 碧蹄館の戦いで日本軍に破れたため、王都への復帰は頓挫した。その後、日明間で講和交渉が開始されることとなり、日本軍は漢城府から釜山周辺まで撤退したため、宣祖は王都への復帰を果たすことができた。しかし朝鮮の頭越しに進められる講和交渉は、朝鮮南部四道の割譲など、朝鮮には不利な条件が含まれており、宣祖以下朝鮮王朝では、この講和交渉に反対した。 日明間の講和交渉が決裂すると再び日経225 を受けることとなるが(慶長の役)、1598年の秀吉の死により日本軍は撤兵した。 その後の1607年、日本の江戸幕府との間に国交を回復している。翌年、56歳で崩御し、後を子の光海君が継いだ。 永禄11年(1568年)、宗将盛の四男(異説として五男)として生まれる。長兄に宗茂尚がいたため、宗家第17代当主・宗義調が隠居したときには茂尚が家督を継いで当主となったが茂尚が早世し、さらにその後を継いだ次兄・宗義純も早世したため、天正7年(1579年)1月に義調の養子となって家督を継ぎ、宗家の当主となった(天正8年(1580年)相続説もある)。 天正15年(1587年)5月、隠居していた養父・義調が当主として復帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。これは同年に豊臣秀吉による九州征伐が始まったためであり、義智は義調と共に秀吉に従ったため対馬国一国を安堵された。 このころ、秀吉からFX を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力する。天正16年(1588年)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。なお義調の死後、再び家督を継いで宗家の当主となった。 天正18年(1590年)朝鮮から来日した使節を服属使と称して秀吉に謁見させた。秀吉はこれを朝鮮が服属したものと受け止め、朝鮮には明の征服事業の先導が命じられることとなる。だが、この朝鮮使節は義智が本来受けていた命令とは違い、秀吉による全国統一に対する祝賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性はなかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。しかしこれも実現しなかった。 朝鮮との交渉は結果的に失敗し、天正20年(1592年)からの文禄の役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の最先鋒として戦った。 義智は5,000人の軍勢を率いて天正20年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸する。翌13日に総攻撃をかけて攻略したのを皮切りに、4月14日に東莱、4月15日に機張、左水営、4月16日に梁山、4月17日に密陽、その後に大邱、仁同、善山を次々と攻略し、4月26日に慶尚道巡辺使李鎰を尚州で撃破。4月27日に慶尚道を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進み5月1日に麗州攻略後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城する。 義智らの軍が漢城に入城する前に朝鮮国王宣祖は逃亡しており、朝鮮王朝の圧政に苦しんでいた民衆は、国王の脱出と同時に、景福宮などの王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。 諸将と漢城会議を行った後、5月11日に投資信託 はさらに北に向かって進撃し、5月18日に臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破。5月27日に開城攻略、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と攻略。平安道に進み、6月8日に大同江の辺りに達し、6月16日には平壌を攻略した。ここで進撃を停止する。 7月16日、明の遼東副総兵・祖承訓が平壌を攻撃してきたが撃退。このとき義智は小西行長とともに敗走する明軍を追撃し、明将史儒・千総張国忠・馬世隆などを討ち取った。7月29日、李元翼率いる朝鮮軍が平壌に攻め寄せてきたがこれも撃退する。 文禄2年(1593年)1月7日、明は李如松を提督として約4万人の明軍に金命元率いる1万人の朝鮮軍を加え平壌に攻め寄せた。明軍が平壌城の城門を突破すると日本軍は北部丘陵地域の陣地に退避する。ここで李如松は「退路を与えるから城を明け渡せ」と伝えてきた。日本軍はこれを受け入れ南に向かって撤退を開始するが背後から追撃を受け厳しい退避行となった。漢城を目指して進撃する明軍に対し、日本軍は諸方面の各軍を漢城に結集した後出撃し、これを大いに破った。これが碧蹄館の戦いだ。明軍ではこの敗戦の結果講和の機運が起こり、日本軍も兵糧が不足したため、講和交渉の開始を約し釜山周辺域まで撤退した。 義智は行長と共に明側の講和担当者・資産運用 らと和平交渉に奔走したが、双方の求める和平条件は合意に至る筈も無いかけ離れたものであったため、国書の内容を双方に都合の良い条件に改竄するなどして和平成立を目指したが、こうした欺瞞行為をともなう交渉は実ることなく、各国に混乱を与え交渉は決裂。慶長の役を防ぐには至らなかった。 慶長2年(1597年)からの慶長の役が始まると、当初義智は左軍に属し再び文禄の役と同じメンバーで行動した。まず西に向かって進撃し、慶長2年(1597年)8月13日南原攻略戦を開始。4日目に攻略を果たした(南原城の戦い)。次に全羅道の道都全州に向かい占領。全羅道を制圧した。その後、冬を前に後退し、以後南海倭城に在番していたが、慶長3年(1598年)8月18日秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に10月15日付で帰国命令が発せられた。外国為替証拠金取引 は小西行長と昌善島で集合し共に帰国する手筈であったが、このとき順天倭城に在番していた小西、松浦、有馬、大村、五島の五氏は明・朝鮮の水軍に撤退を妨害され順天から動くことができなかった。これをみた宗義智は、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、寺沢正成らとともに水軍を編成し順天に救援に向かう。このとき露梁海峡で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と交戦したのが露梁海戦である。小西行長ら五氏はこの戦いの間隙をぬって脱出に成功。宗義智は小西行長らとともに釜山を経て帰国を果たし、前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終結した。 秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を代理として参加させた。しかし戦後、悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進めることを望んでいた徳川家康から罪には問われず所領を安堵され、対馬府中藩の初代藩主となった。この時、正室の小西マリアを離縁している。 文禄・慶長の役のために悪化した朝鮮との関係を修復するように徳川家康から命じられた義智は、慶長14年(1609年)に朝鮮との和平条約を成立させた(己酉約条または慶長条約)。この功績を家康から賞され、宗氏は幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行なうことも許されている。 慶長20年1月3日(1615年1月31日)に死去。享年48。後を長男・義成が継いだ。 初名の昭景は室町幕府の第15代将軍・足利義昭から「昭」を賜ったものである。後に秀吉から羽柴の名字と諱の一字を貰い吉智と名乗った。 朝鮮との交渉を懸命に努めて戦争を回避しようとした理由は、貿易利害のほかに対馬が朝鮮との中継地に使われることを恐れたためでもあった。なお、江戸期に入って朝鮮との和平条約を締結して宗氏の江戸幕府における地位を安泰させたものの、このときに交渉を性急にしすぎたため、次代の義成時代に宗家は滅亡の危機に立たされることにもなった。 義父の小西行長の影響を受けてキリシタンにもなっていた。洗礼名はダリオである。朝鮮の日本軍を慰問したグレゴリオ・デ・セスペデス神父は「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評している。

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